昭和42年11月22日 朝の御理解
信心の喜び、楽しみ、有難さというものをだんだん解ってこなければ、信心の値打ちはありません。信心の喜び、信心をさして頂く者の喜び、信心の楽しさ、信心の有難さというものがだんだん解ってこなければ信心を頂く値打ちはないというくらい私は思う。ただおかげを、おかげをと、おかげを願うたり、心の安心を求めてじゃなくて、ただ{溺れるものはわらをもつかむ}というような状態での信心、なにがなしか信心をしておらなければ、拝んででもおらなければ、それで信心で紛らかすと言ったような信心ではつまらん。ね
紛らかす信心じゃつまらん。
みなさんの信心はどちらの信心だろう、拝みよらなければ、お参りしとかなければ、なんとはなしに不安。そういう信心であったら、そりゃまぎらかし信心と、けれどもお参りさしていただくこと、お話をさしていただくこと、修行さしていただくということが有難い、楽しい、そういう信心でなからなければ、信心の上達も得られないし、もちろん、お徳なんかはいただけませんね、それでなからなければ。ですから、せっかくその形は同じでございますから ね そういう内容を持った信心を目指さなければいけません。暇ん時に参る、自分の心が向いた時参る、そう言うようなことではおかげにならん。きのうは福岡の高橋さんとこのお店がお休みでしたから、現在職人さんたちが三人、お寿司屋さんですから、お寿司屋の職人さんたちが三人、信心に、いわゆる高橋さんの信心に帰依して、「やっぱり大将の生き方でなからなきゃいかん」と言うので、お休みの日には必ず一緒に参ってくる。だんだんありがたいことになってくるですね。お店をさして頂きよっても、ね そういう店員さんたちまでが信心になっていかれるということは、これはもうとりもなおさず高橋の信心、言わば着いとかなきゃばからしいといったような感じですね。ですから、たとえば高橋さんが居られなくても、職人さん達がその・・・ですね 大将が居られない時のほうが商いがあるち言う、ね少しはゆっくりなってくると ま「椛目に参ってください」と言ってから言われる。 もちろん沢山支援の方がおられますけれども、そこの中心になる職人さん達が三人、大将の信心に着いて来てくれるから、ありがたい。そのくらいなおかげをいただきたいと思うですね、自分も、もちろん家族中のものがと言う訳ですけども。家族ではなくても、使用人の方達までが信心に着いて来てくださるような信心を頂かなきゃならん。
それはですね、「もほんーと信心ちゃじゅつないことじゃある」、「信心ちゃほんとにもあたしはあげな修行はでけん」とたとえば周囲に思わせるようなことではだれも着いちゃ行きませんよね けれどもやはりおかげも頂くだけではなくて、ね、人柄も変わっていきゃ、物の見方、考え方も信心になっていく、そういう姿にみんなが触れて、「僕も参らせてもらう、私も、連れて行ってください」ということになるのじゃないだろうかとこう思う。
そこで私は信心がそういう嬉しい、または楽しいもの、そういうおかげを頂くために、修行のたのしみ、修行の喜び、修行というものがこのようにありがたいものであるということをまず解ることだと思うですね。教えを頂く、お参りをする、その雰囲気がありがたいのですけども、まずなんと言うても今日私が申しますように信心がありがたいもの、喜ばしいものになるためにはね、信心修行がありがたいもの、嬉しいもの、楽しいものになってこなければ、信心はほんとのことじゃありません。信心、身がいった信心とは言えません。すじがねが通ったという信心は生まれてきません。お願いをしなければならんから、苦しいから、朝参りをさしてもらっておるという信心から、ひとつ脱却する 脱皮さしてもうろうて、そこまで信心の修行の喜びというものがわかるようにならなきゃいけません。ね きのうも先生方2, 3人とお話としたことですけれども、ほんとにその一生懸命のもちろんこれは私が一番尊い修行といや、「させられる修行、させられておる修行をまともに、させられておる修行としてうけることですね。痛いことが起こったり、苦しいことが起こったり、腹んたつようなことが起こったりする、そのことを本気で修行でいただいていくということが、一番尊いのですけどもですね、それを尊い修行と受けさしていただくためにさせられる修行ではなくて、する修行をせにゃいかんです。で修行を鍛え、信心を鍛えるということはそういうことなんです。ね ただ自然に起きてくるさまざまな問題を合唱してうけてさえいきゃいい、それを修行してうけてさえいきゃいいのだけれども ね いわばさせられる修行を尊ぶだけ、それだけでは受けれん。ふしぎに。こちらがする修行、少し損害がでるかもしれん。自分で頑張ってする修行がね、でけるくらいにならなければ、させられる修行は尊いものにならなければ、ありがたいものになってこんのです。不思議だね、そのへんが信心の実にデリケートなところ。本気で信心、ね たとえば、皆さんが一番、ま お道の信心で修行といわれるのは、この朝参り。ね 皆さんが朝参りの修行をなさる、これは修行です。ね だからこれは自分でいうならばよくよく考えてみるとさせられる、させられておる。けれども今日はその表現のしようが他にないから申しておりますが。ね させられる修行とする修行。する信心じゃつまらん、させていただくという信心じゃなからんといかんと言われるけれども、今日はたとえばそこんところ、表現がしにくいからそういうふうに申します。ね 自然に起きてくるさまざまな問題をそのまま合掌して受けていくというような、生き方がさせられる修行と今日は申しております。ね 朝参りでもさしてもらおう、お水のいっちょでもかぶらしてもらう、それこそ、火の行や水の行でもあえてさしてもらおうと、これはさしてもらうとは言わずそれをする修行と今日は私は言うておる。朝参りをする修行、自分で本気にならんとできますまいが、朝参りでも。ね 起こされちからどんしょうことなしの朝参りじゃ、今日あたしが言う、修行の楽しみとか、ありがたさとかはないのです。はあ こっちがその気になりゃ神様が起こしてくださるなー、なるほどこっちがその気になりゃ暑いもなからなきゃ、寒いもないな、いやその暑い、寒いこそほんとの修行の精神というものが感じられ、頂かれるものだなーということを体験しなければ、信心の楽しみとか喜びはないのです。ね もう20年も前、私は一週間、寝らずの行をさしてもらったことがある。ちょうど北野の教会、一番最後の一日、二日は北野の教会で泊まりがけでお話をしておるじぶんでした。ところが、今日が満願の日、今日がいうならば一週間目という時にお話をしながら眠っておる。そしたら神様からですね、一週間の修行が出来なかったんですよね、ですからその「もう一日そのお詫びの印にせれ」と神様から頂いた。初めから最後までとうとうでけんなりでしたけれどもその有難いですね。そこんところがなかなか有難いところでした。かといって全然寝むらないかというとですね、やはりその自分も全然ねむってると気づかないうちに眠っているというふうな、たとえば福岡からのじぶんに、参って、もう私はあのじぶんは決して乗り物に乗っても腰を ご本部参拝するときも私は腰かけたことなかった。それでもかけにゃいけん時にはうしろのこのよりかかるところによりかからずに少しばかり腰を浅くしてかけたです、ね 席があるときですよ、「かけなさって」、「いいえ」と言うて強情はるわけにはいかん、その時にはだから替わる人があったらすぐ席を譲ってあげる、替わってあげるというような生き方だった。後ろへこうやって決して私は背中をつけたことがなかった、どこまで旅行するでも。福岡、久留米の電車なんかはもう吊革を持ったまま、ですからこの吊革をもったまま寝むってるですね。すっとこう久留米に来る時は目が覚める。まあいうなら、さあ、いっちょ寝ろかと云ったような気持ちではなく、横になって寝ろかといったようなものではなかったという修行です。ね そういう修行がですね、今からとても今せろといわれて出来るこつっじゃないけども、その気になったら、やはりでけたということです。そして、私が思うことはさせられておったなと。けれどもやはり自分がする気にならなければ出来ないということ。(大空にそびえて見える高嶺にも登れば登る道はありけり) 明治天皇のぎょせいですよね。とてもとてもああいう山には登られまいというような、それこそ雲を突くような山でありましてもです、本気で登るという気になればちゃんと道はつくものだと。信心修行はそれなんです。ね ところがです、その本気になって登る気になるとです、登らせられることに気がつくところにです、ほんとに有難いものが、今日私、解っていただければ、そこんところを体験してもらいたいと思うのです。私は今朝がたお夢をいただいたんです。(身振りでぶりで説明してある様子)それはそれはもうこう山土の目がこうなってるんですね 後ろは頂上のほうが転がってる感じ、そして下の方はですね、もうとうとうたる川が流れておる。山のだいたいこういうふうになっとるとがですね、もう少し感じではこんなになってる感じなんです。それを私がここのとうとうと流れておる谷のとこから見上げておるというな状態。「はあこれはまたどうでん登らにゃいかんがどげんして登るじゃろか」、けれどもまあのぼらじゃこて本気になって登りだしたんですね、ところがですね、もうしがみついて登るようなものも、もらいようる感じですけども、登ってみると、しがみつくものがあったり、足場があったりですね、いよいよのところにはですね、もうこのくらいばっかりの縄がもう、実に頑丈な縄がですね、ちょうどへびがこうつぐらをもうとるように置いてあるですね、はあこん縄は頑丈たい、こげんひっかけておいてから杖と縄に、ですがって登っておる。そして頂上に登らして頂いたら驚いたんです。頂上の向こう側はもうアスファルトのすばらしい家があるんです。ちょうど私、このごろ雲仙にまいりました時にですね、あのあちちらへ行く方がたはご承知でしょ、あの、バスでも自動車でも通るあの立派な有料道路がございますでしょう。そしてんなら下のほうを見ると、下のほうはもう海になっとってから、もう見られるごと高いところがありますでしょうが、まあ言うならああいう感じを下から見ておったと言う訳なんです。ね頂上へ登ったらですそこはもうアスファルトの大きな道があって自動車が走っておると言ったような感じのお夢でした。ねえ、だからここんところを登らしていただくということがいわば「する修行」、この塀のところを通らしていただくのが「させられる修行」、私はそんなふうに感じたんです。
この「させられる修行」はですね、これはもう信心があってもなくてもだれでもしておる修行なんです。それを修行と感じるか、苦労と感じるかというだけのこと。信心さして頂いておってよくわからせていただくと、それを「させられておる修行」として受けていく
尊い修行がでけるようになる。けれどもこの裏側から登ったというその雲つくような感じで坂というてももうほんとにこんな急坂、いわゆる急な坂はなかろうというような山でも
よじ登らして、通るところは通っていうわけですね、通るところは通ってこの道に出た時がほんとなものであり、そんときがいわば「させられる修行」が尊い修行として頂けてくるようになってくるんだというふうに私は感じた。ね ですから私ども、「する修行」の中にはですね、ねえ その気になれば必ず、登れば登る道がついておるということの不思議さ楽しさというものがある。登る最中に、「どうしてこげなところに人がそれこそ前人未到という言葉があります、だれでもこの山に入ったことがなかろう、この山に登ったことがなかろうと思うて登りよるのだけれども、こんな修行、こんな苦労はもう私だけんごと思うとるけれども、そんなこっちゃない、ちゃーんと前には前に通った人があるんだと、[元を取って道を開くものはあられぬ業をするけれども、のちのちのものはみやすうおかげがうけられる]というのはそのことなんだ。ここんところにほんとに縄もなからなければ何もない時に登られた方があるのだ。けれども、後あとのものために、登ったところにはちゃんとその目印がついてあったり、いうならばそういう縄が置いてあったり、はあこれが先覚先輩の先生方やら教祖様やらがお通りになったときにこの縄をお使いになったじゃろーと思って登っておる、ねっ それが楽しいの、それが有難い、登れるはずはないと思う所にこの縄がちゃんと置いてあるということがありがたい。しかもそこは先輩が登られた道であると同時に教祖の神様が登られたお道であり、なるほど、ここんところをなんもなしに登られた方達はたいへんな難儀なことであったろうとこう思う。けれども私どもが登る気になりゃちゃんとのぼれるところの、そういういわば、体験がです
あたくしは修行の楽しさ、有り難さとこう思うのです。だから本気になってですね、やはりする修行のひとつもさしてもらわないかん。それも一番見やすいのが朝参りの修行でございます。ね そしてだんだん上をしよるという修行からなるほど自分がしよるとじゃないなー神様からさせていただきよるなーということになってこなければという修行じゃなからなければ修行という値打ちがない。それが火の行、水の行でありましても私がしよう本気でやろうと思うたのは私だけれども、よくよく考えてみると思わされておったのであり、させられておったのであるということになるのです、そしてあれも、これもが実を言うたらさせられておる修行、けれどもここで私はふたつの言葉を使って、する修行、させられる修行を本気でするというですね信心意欲というものがでてこなければです、信心の喜び、信心の楽しみという有り難さというものは、それは他にもございます信心の楽しみというのは、ね 有り難さというのは他にもありますけれども、まず私は修行の喜び、修行の楽しみが分からせて頂かなければ、させられる修行もでけません。もう山の頂上についてちょっとひと登りどころかもう下は下り坂ではなくてそこにはアスファルトの道がついておる。しかも自動車がどんどん走っておる、ここんところをさせられる修行でなからなければ、うかつに今度は反対に谷間のほうに飛び込んでしまうようなことになり兼ねないのです。平易な道だからというて安心はでけません。心をいつも神様へ向けさせて頂いて、この平易な道を通らせて頂く時にです、私は今日高橋さんの例を申しましたが、ついてこなきゃーおられないものが生まれてくるのじゃないでしょうか。ね 信心のないひとたちからでも、なるほど、見方、考え方からあーやって違うですものの。「こりゃ信心さしてもらわなければばからしかと言うように、わたしもいっちょ連れて参っていってください」と言ったような事になってくるのは私はそういう所を通り抜けた人たちの信心であると私は思います。このごろ合楽会のときに、秋永先生が話された、私はこれませんでしたけれども話されたというのが、高橋さんのことを話されたらしい。そしてその高橋さんがですね、たとえば入信、あの椛目にご縁を頂いたときの自分の「とてもとてもあげな修行は今はでけん」 ほんとに今から考えてもできんような修行をですね、やはりやり抜かれて、いわばその修行を自分のものにしてしもうて今は言うなら平易なアスファルトの上を走っておるような修行をしておられるような感じが致します。ですから確かにですね、その後する修行をいったようなものはとてもほんと、あげな修行はやっぱ後から考えたらでけんと思うような事が沢山ありますけれども、その修行がもっともっと、ほんとうの修行、尊い修行に切り替えられていく、そこんところを私は思うんですけどもね、一生を火の行てん水の行てんといったような修行はこれはほんとうなもんじゃないように思うですね 修行がそれに匹敵するような修行でありましても、それは尊いもの。ほんとに有り難いもの、いわゆるさせられる修行をそのまま合掌してうけられる修行、受けられるような状態、そういうものがでけてくるのでがざいますから、一生が修行でありますけれども、20年前にした修業が又20年後も続けられておるといったような修行は、私はあんまり感心しきれないと思いますけれども、けれども家庭においてはやはりそこんところをいっぺん通らしてもろうて、そういう修行でなかんでも、楽しみがある、喜びがある、どうしてこういうところに、こういうふうに登って行けれる道具やらが置いてあるじゃろうか、なるほど、元をとって道を開らかれた方達がここにこういうような道を開いておって頂くのでそういうお繰り合わせがこの自然の中にも頂けれ事が楽しい、有り難い。信心の有り難さというのはまず修行の有り難さが判らなければほんとの信心の有り難さは解りません。どうぞ。